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高橋琢也

第二章
「学祖 高橋琢也~その為人ひととなり~」

第二章「学祖 高橋琢也~その為人ひととなり~」

 東京医学専門学校の設立以前、高橋琢也は沖縄県知事を務めていた。官僚を辞任して以降、表立った活躍が出来ず、高橋の窮状をみかねた原敬の尽力により、1913(大正2)年に沖縄県知事に就任した。1915(大正4)年には、沖縄県の実情を知らしめ、沖縄県人を鼓舞するため『起て沖縄男子』を出版した。  沖縄県知事を辞任した後、高橋は東京医学専門学校の建設に注力する。1916(大正5)年9月、東京医学講習所は東京物理学校の校舎を間借りし、授業を開始した。とくに臨床教育は、内科は回生病院、外科は順天堂医院の協力により初めて実現可能となった。 1917(大正6)年以降、高橋は、専門学校の設立を喫緊の課題にかかげ、71歳という年齢ながらも奮闘の日々を送る。高橋は東京医専設立委員長に就任し、専門学校の設立の認可を得るために、資金募集、認可申請書の作成、校舎の建設など多忙を極めた。高橋は学校建設に関わる費用を醵出するために、自身の書画、骨董のみならず、北海道と青森の土地を売却した。1917年6月に東大久保に4,206坪の学校用地を購入している。この土地は、現在の新宿キャンパスの校地である。同年9月には、専門学校として申請するために必要な校舎と病院を東大久保に建設しているが、11月の暴風雨により倒壊して使用不能となる悲運にあった。校舎再建に向け、高橋は骨董や土地の売却を急ぐのであった。

出典:『365体育_足球比分网¥投注直播官网五十年史』59ページ。

2-1. 学生諸氏に檄す(『奮闘之半年』より)

 1916(大正5)年9月、悲願であった東京医学講習所が設立された。高橋琢也は「学生諸氏に檄す」を『奮闘之半年』の冒頭に寄稿し、学生を叱咤激励した。  「特に五月以来悲惨の境遇に陥りて、一次は廃学せざるを得ざるに至りたる等、久しく悪戦苦闘を為し居たるが、頃日聊か小康を得たるを以て、前日の艱難を忘れざらんが為、今回其奮闘の事跡を叙して紀念号となし、之を同氏に頒たんとす」  高橋は、現状を「一時の小康」と捉え「一大難関の横たはるを自覚」することや、「前途を楽観するは極めて危険」など、少しも気を緩めないことを伝えている。続けて、「而して其覚悟は他に依らず人を頼まず自主自立不撓不屈の精神を以て飽くまて難関を撃破して彼岸に達せんとするに在りしかもその難関を撃破する唯一の武器は精力と信念となり」と述べている。 とくに注目すべきは、「自主自立」という言葉である。「自主自学」に通じる精神が、建学当初から既に意識されており、高橋の薫陶を受けた学生が今日に至るまで、その精神を継承していると言えよう。

2-2. 高橋琢也日記 第一冊

 東京医学専門学校の設立準備にかかわる高橋自筆の日記。寺尾、大角、福本、秋と富士見軒にて会合した高橋は、創立委員長に就任することを要請されたとの記述が確認できる。11月15日には、高橋が財団創設、東京医学講習所および教務にかかわる委員長に就任したことが記されている。

大正五年十一月八日

寺尾、大角、福本、秋の四氏と富士見軒に会合す。医専の創立委員長となりて財団組織の成立に尽力せん事を四氏より懇請せらる。予は之に対し数日の熟考期間をあたえん事を乞い、四氏之を諒す。

十一月十三日

夕刻、寺尾、福本二氏来訪。■座協議の末、遂に委員長たる事を承諾す。但し予の趣は両氏に於て秋に報告する筈。

十一月十四日

山本(達雄)、中濱(東一郎)の二氏を訪い、医専の現況を話し、山本氏協賛員を署名す。福本氏、秋氏に面会して、予の委員長承諾の旨を通し、之に依て拾五日午前十一時富士見軒に会合せん事を福本氏より電話にて申来る。

十一月十五日

午前十一時、寺尾、福本、秋の三氏と富士見軒に会合す。秋氏より予が委員長を承諾せし事を謝し、就ては今後医専の財団創立と医専学講習所と教務との三事業に対し委員長となって尽力致し呉れたく、且つこの事を本日医学講習所に於て教員総代及び学生総代に此の旨を通達したき事を述べたり。予並に他の二氏も之を承諾し、午後二時車を連ねて講習所に至り、両総代に向って秋氏より予の三事業の総委員長たる事を告げ、次て予が一同にむかい左の如く演説したり(後略)

2-3. 雑誌『国論』

 高橋は自身が主催する雑誌『国論』第4巻第5号、1918(大正7)年5月発行において、東京医学専門学校設立記念の特集を設けている。口絵の箇所には高橋琢也(東京医学専門学校?総理)、佐藤達次郎(同?校長)のほかに、「創立認可学生会記念祝賀会」の集合写真が掲載されている。 佐藤達次郎「鴻恩に報ずるに勉強を以てせよ」(36ページ) 「そうしても此救はれた学生諸君は、今後一層勉強せられて、国家に有益なることを為し、学生としては他の学生の模範となり、又国家試験を受けらるる場合には、非常な好成績を以て、他の学校に優れた成績を挙げるやうにせらるることが、即ち高橋先生に報ゆる第一の条件、勤めであらうと思われる???中略???軽薄に流れず充分に斯道の学問に勉強されて、さうして、幾分なりとも、高橋先生の恩に報ゆるやうにして戴きたいと思います」  佐藤は、東医生が他校の学生の模範となること、医学の道を究めること、高橋先生の学恩に報いることなどを述べ、学生を激励している。

2-4. 高橋琢也揮毫きごう 学生たちへのメッセージ

戦前の卒業アルバムに掲載された高橋先生の自筆の書。高橋先生が卒業する学生に贈った言葉である。

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