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第四章 「統合 教育?研究?臨床の三位一体」

第四章
「統合 教育?研究?臨床の三位一体」

第四章「統合 教育?研究?臨床の三位一体」
~優れた医療人育成のために

 現在、365体育_足球比分网¥投注直播官网は、教育、研究、臨床を柱に、すぐれた医療人を育成し、社会に貢献することを目標にかかげている。365体育_足球比分网¥投注直播官网の前身である東京医学専門学校は、1903年(明治36)年公布の「専門学校令」に準拠し設置された教育機関である。本来、医師養成機関は、各種学校、専門学校、大学の3つが併存していたが、上記法令の公布により、開業医試験の予備校である各種学校は事実上廃止された。  専門学校令の第1条は、「高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校ハ専門学校トス」と定めており、医師を要請するための高度な技術を習得する機会を提供するのが、専門学校に課された役割と言える。1905(明治38)年には、「私立医学専門学校指定規則」が制定され、従来、官立および公立の医学校に限られていた無試験免許の特典が、私立の専門学校にも拡大適用されるようになった。このように、戦前の専門学校は、臨床医を養成する機関として位置付けられていたが、東京医学専門学校の場合には、教育を基本に臨床と研究も重視し、戦前から優れた医療人を育成することを目標に掲げていた。

4-1. 研究の萌芽:東京医学専門学校時代の研究者たち

佐藤達次郎(サトウ タツジロウ)
1868(明治元)年~1959(昭和34)年

 1868(明治元)年11月、福井県三方郡に漢方医の河合貞助の次男として誕生。1887(明治20)年、第一高等中学校(第一高等学校の前身)医科に入学、1892(明治25)年に第一高等中学校を卒業、同年9月に東京帝国大学医科大学に入学。1896(明治29)年、東京帝国大学医科大学卒業後、翌年にベルリン大学に留学、1900(明治33)年に順天堂医院にて外科手術を担当した。1896年に佐藤家の養子となり、順天堂医院の後継者として嘱望されていた。1903(明治36)年にウィーンに再留学し翌年5月に帰朝し、1905(明治38)年に東京帝国大学医科大学より医学博士の学位を授与された。1918(大正7)年に東京医学専門学校の校長に就任。佐藤は優れた研究者、臨床医であったが、東医に於いては校長として、主に教育者として学生の指導につとめた。臨床医育成の方針として、患者を診るために医師自身が健康であることを掲げていた。佐藤がこのように考えるに至った背景には、佐藤自身の原体験が深く関与している。幼少時代は病弱であり、腸チフスに罹患し危篤状態に陥ったが回復し、苦労の末に東京帝国大学医科大学に入学した。在学時代は、柔道、ボートなど様々な競技に挑戦し、スポーツと健康の重要性を自らが経験した。こうした体験をもとに学生には部活動を奨励するなど、研究、臨床、教育の三位一体の重要性を説いていたのである。

出典:小川鼎三『佐藤達次郎略伝 生誕百年記念』1969年。

緒方知三郎(オガタ トモサブロウ)<病理学教室>
1883(明治16)年~1973(昭和48)年

 幕末の蘭学者?緒方洪庵の孫。父の緒方惟準は東京陸軍病院病院長。東京帝国大学助教授時代に、日本医学専門学校において講義をおこなっていたが、総退学した学生に同情し、東京医学講習所が開設された当初から講義をおこない、東京医学専門学校設立と同時に教授に就任した(当時は東京帝国大学教授と兼任)。佐藤達次郎校長の後をついで東京医学専門学校校長、365体育_足球比分网¥投注直播官网初代学長などを三期務め、理事長にも就任。大学昇格のために尽力した。

出典:『365体育_足球比分网¥投注直播官网百年史』99ページ。

岩男督(イワオ トク)<内科学教室>
1885(明治18)年~1950(昭和25)年

 1908(明治41)年、京都帝国大学医科大学に入学。1912年(大正元)年、同大学卒業。1913(大正2)年、京都帝国大学助手。1915(大正4)年、京都帝国大学助手を辞任し、佐々木東洋が設立した東京杏雲堂病院に勤務。1917(大正6)年杏雲堂病院を辞し、順天堂赤坂分院に勤務。1918(大正7)年、京都帝国大学において医学博士を取得。1919年(大正8)年、東京医学専門学校教授。1946(昭和21)年、365体育_足球比分网¥投注直播官网教授、1948(昭和23)年、365体育_足球比分网¥投注直播官网教授退任、名誉教授となった。

出典:『岩男督先生追慕録』359~385ページ。

浅田一(アサダ ハジメ)<法医学教室>
1887(明治20)年~1952(昭和27)年 

 1912(大正元)年、東京帝国大学医科大学を卒業。東京市養育院精神病科を経て1913(大正2)年9月法医学入室(片山国嘉教授、三田定則教授)し、1914(大正3)年2月助手、1916(大正5)年9月東京医学講習所教授に就任した。1917(大正6)年11月東京帝国大学の講師となり、文部省在外研究員として1921(大正10)年4月~1923(大正12)年4月にパリ大学、ベルリン大学に留学した。1923(大正12)年2月には、長崎医学専門学校(現長崎大学医学部)講師兼附属病院精神科医長、同年4月長崎医大教授兼附属医専部教授に就任した。1934(昭和9)年4月東京女子医学専門学校(現東京女子医科大学)教授、同年10月東京医学専門学校の教授となり、1946(昭和21)年5月には365体育_足球比分网¥投注直播官网教授に就任している。

出典:泉孝英編『日本近現代医学人名事典 : 1868ー2011』医学書院、2012年、13ページ。

上林豊明(カンバヤシ トヨアキ)<皮膚科学教室>
1888(明治21)年~1939(昭和14)年

 1914(大正3)年東京帝国大学医科大学を卒業。土肥慶蔵教授の皮膚病学黴毒学に入局。順天堂医院勤務の後、1919(大正8)年3月に東京医学専門学校の教授として皮膚花柳病科、1921(大正10)年3月には皮膚泌尿器科を担当した。皮膚病に関与する細菌類の生物学的研究の先駆者とされ、「江戸ニ於ケル売笑婦ノ地理的分布ニ就テ」1917(大正6)年、「皮膚疾患の療法と其手技」1925(大正14)年、「淋疾ノ療法ト其手技」1930(昭和5)年などの論文を発表し、東京帝国大学にて博士号を取得した。

出典:泉孝英編『日本近現代医学人名事典 : 1868ー2011』医学書院、2012年、200ページ。

原三郎(ハラ サブロウ)<薬理学教室>
1897(明治30)~1984(昭和59)年

 1915(大正4)年日本医学専門学校に入学。1916(大正5)年5月、同校当事者と意見を異にし学生総退学に加わり、新医専設立に学生として協力。同年9月、東京医学講習所第2学年に入学。1918(大正7)年4月東京医専が創立され、第2学年に編入学。1920(大正9)年6月に東京医学専門学校を卒業した。同年7月順天堂内科入局、同時に小石川音羽養生所において呉秀三博士より精神病学を学ぶ。1921(大正10)年10月から1924(大正13)年4月にかけて、ベルリン大学やパリ大学に留学し、1924(大正13)年5月東京医学専門学校の教授に就任し、薬理学創設に着手した。1947(昭和22)年8月、365体育_足球比分网¥投注直播官网専門部教授、1949(昭和24)年4月365体育_足球比分网¥投注直播官网教授に就任し、1968(昭和43)年3月に退職した。薬理学の専門書として『薬理学実習』1925(大正14)年、『実験薬理学』1928(昭和3)年を著したほか、歌集『牧草地帯』1951(昭和26)年、『東京医大五十年のあゆみ』1966(昭和41)年を刊行するなど、優れた文才を発揮した。

出典:泉孝英編『日本近現代医学人名事典 : 1868ー2011』医学書院、2012年、502ページ。

馬詰嘉吉(ウマヅメ カキチ)<眼科学教室>
1895(明治28)年~1981(昭和56)年

 1920(大正9)年、東京医学専門学校を卒業。眼科医として明々堂医院、博済病院に勤務したのちに、1924年(大正13)年に徳島県小松町にて開業した。1927(昭和2)年には、愛知県立医学専門学校(現名古屋大学医学部)に学び博士号を取得した。1930(昭和5)年5月に東京医学専門学校に助教授として赴任した。1948年4月には365体育_足球比分网¥投注直播官网教授のほか、1952(昭和27)年6月~1964(昭和39)年2月にかけて病院長をつとめた。その後、1963(昭和38)年12月~1967(昭和42)年3月には学長、1971(昭和46)年4月~1981(昭和56)年12月理事長の任を務めた。 戦前から優れた研究業績を残し、『基礎眼科学』1938(昭和13)年を発行したほか、色覚の分野においては東京医大式色覚検査法、馬詰?太田式中心暗点検査表を開発した。

出典:泉孝英編『日本近現代医学人名事典 : 1868ー2011』医学書院、2012年、95ページ。

篠井金吾(シノイ キンゴ)<外科学教室>
1905(明治38)年~1966(昭和41)年

 1927(昭和2)年東京医学専門学校を卒業し、佐藤清一郎教授の外科に入局。1931(昭和6)年7月には助教授、附属病院外科長に就任し、1944(昭和19)年4月には教授に昇任した。1948(昭和23)年4月には365体育_足球比分网¥投注直播官网教授となる。戦前から多くの書籍を著し、『輸血』1943(昭和18)年、『肺化膿症』1951(昭和26)年などを著し、博士号を取得した。

出典:泉孝英編『日本近現代医学人名事典 : 1868ー2011』医学書院、2012年、309ページ。

4-2. 東京医学専門学校と臨床

 内科学教室は、東京医学講習所が設立された当初から設置され、田沢鐐二教授、池上作三教授が講義を担当した。その後、長らく講義および臨床を担当したのが、荒井恒雄教授(1919年~1943年)、岩男督(1919年~1948年)の2名であった。写真中央において患者の脈拍を測っているのが小川東洋教授、写真の奥で座って記録しているのが荒井教授である。

出典:『365体育_足球比分网¥投注直播官网五十年史』352~353ページ。

 耳鼻咽喉科学は、順天堂の千葉真一が研究と臨床の分野において発展の基礎を築いた。千葉は、東京医学講習所および東京医学専門学校において耳鼻咽喉科学の講義のほか、順天堂医院において臨床を担当した。写真中央に映る人物は、川目鉄太郎である。川目は、1920(大正9)年に東京医学専門学校を卒業し、博済病院の医員として研究と診療に従事した。川目の患者数は各科で最多を数え、博済病院の診察を一手に引き受け、1924(大正13)年6月には東京医学専門学校の助教授に就任し、松本本松教授を助けて耳鼻咽喉科学教室を盛り立てた。

出典:『365体育_足球比分网¥投注直播官网五十年史』411~412ページ。

 小児科は、東京医学講習所の開設当時から開設されている診療科であり、その設置においては清水茂松が尽力した。清水は、講習所の開設以来、一貫して小児科学を担当し、1918(大正7)年4月に東京医学専門学校が誕生すると、教授として小児科学の講義を担当したほか、附属博済病院の小児科において診療も担当し、研究と臨床に従事した。清水の研究成果は『小児病学』(1935年)として発表され、第17版を重ねた名著と評価が高い。

出典:『365体育_足球比分网¥投注直播官网五十年史』371?373ページ。

4-3. 東京医学専門学校と教育

 薬理学に関する講義は、1918(大正7)年4月~1924(大正13)年4月に松村茂秀教授が担当していたが、実習などは行われていなかった。当時、薬理学の実習は帝国大学以外では実施されておらず、原三郎が1924年(大正13)5月に薬理学教室の初代教授に就任したことに始まる。原は、1920(大正9)年に東京医学専門学校を卒業後に、ヨーロッパに留学して薬理学を専攻し、弱冠27歳という年齢で教鞭をとった優秀な人物であった。

出典:『365体育_足球比分网¥投注直播官网五十年』323ページ。

4-4. 戦前の研究成果の継承:公衆衛生と中嶋宏

中嶋宏(ナカジマ ヒロシ)
1928(昭和3)年~2013(平成25)年

 1954(昭和29)年に本学を卒業後、本学神経精神医学教室(現?精神医学分野)に所属。1956年には、フランス政府奨学生として留学し、パリ大学、フランス国立衛生研究所などで臨床研究に携わった。1974年(昭和49)年にWHO(国際保健機関)に参画し、1988(昭和63)年~1998(平成10)年にWHO事務局長を歴任し、退任後にはWHO名誉事務局長になった。結核やポリオ(小児麻痺)などの感染症対策をはじめとした多くの公衆衛生分野において多大な貢献を評価され、2000(平成12)年には勲一等瑞宝章を受章した。  1987(昭和62)年、365体育_足球比分网¥投注直播官网衛生学公衆衛生学客員教授に就任した。就任に際し、『東京医大新聞』第236号(1987年10月15日)に寄稿し、篠井および馬詰先生がフランスに留学されたことをふまえ、自身の留学経験やWHOにおける活動を回顧している。戦前から積極的に海外に留学し、海外を舞台に研鑽、修学につとめ、現在も国際感覚に優れた医師を養成する365体育_足球比分网¥投注直播官网の自主自学の精神は、すでに戦前から萌芽していたと言えよう。

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